回顧録4

中学になるころには、もうすでに人生が苦行だった。

いつも、幼稚園時代を懐かしく思い出していた。

 

ピアノの先生が、いろいろなコンクールの審査員として全国を飛び回るようになり、大学でも授業を持つようになったことから、その先生の娘(桐朋大学出身)にピアノ教師が変更になった。

この娘教師(当時30代くらい?)が、ピアノはうまいが、とんでもないモラハラで、今思い出してもあり得ない文句で中学生相手に罵倒するようなレッスンで、私は本格的な鬱状態になっていった。

その教師のことは嫌いだったが、ピアノ自体は好きだったので、

「何なのよその尻軽女みたいな音、あんたみたいなウスノロ、ここを辞めて田舎のピアノ教室に戻りなさいよ」

と毎回罵られても、辞めなかった。

今思えば、なんで辞めなかったのかナゾだが、そのころも母は家で毎日荒れ狂っていたので、「ピアノを辞める」なんて言った日には殴られると怯えている心が50%、あとは、その娘の横暴に気づいた元の先生がいつか私の先生として舞い戻ってくれる希望に賭けていた50%だったと推測する。

その娘教師にとっては、気が弱く、自分の殻に閉じこもってしまう私のことが歯がゆくて、いら立っていたのだろうと、今なら思えるが、中学生の頃はひたすら怖く、悪意ある言葉をぶつけられるのが単純に悲しかった。

 

この経験により、「自分は母親以外の大人からも叱られる本格的にダメな奴だ」という劣等感を強めることとなった。

自分の劣等感を人のせいにしているわけではない。

私は長所が分かりにくいタイプであることは間違いないのだから。

その娘先生は現に、みんなに冷たいわけではなく、出来のいい薫子ちゃんには猫なで声で接していた。(その落差にまた当時の私は傷ついていた)

 

レッスンは毎回レッスンにならないくらい泣かされるので、あまり上達せず、その後のコンクール受賞歴もあまり振るわず、結局、高校1年生の時にブラームスでつまづいて辞めてしまった。

ブラームスは主旋律と伏旋律が偏執狂レベルで組まれているので相当IQ高くないと弾きこなせず、私みたいな感覚で生きているタイプには一番向いていない。

娘先生は私を辞めさせたくて、その選曲をした意もあったのだろうと、邪推する。

娘先生からしてみれば、母親から任された手前教えなければならないが、愚鈍でピアノが上手くもなく、良い家の子でもない私を教えても何の得にもならない、くらいの感覚だったのだろう。

ピアノ教師とて、みんなが教育者としての使命感をもっている子供好きなわけではなく、しょせんビジネスだ。

 

学校では、勉強はよくできたが、部活動はうまくいかなかった。

入学してすぐ入ったテニス部は、先輩が怖すぎた上に同級生に持ち物をたかられ、1年でやめてしまった。

2年生の秋から入った吹奏楽部では、ユーフォニウムの上達は早かったが、「みんなで金賞めざそうね」という団結意識とスポーツ根性についていけず、結局「楽器はうまいがやる気がない存在感薄い先輩」みたいなビミョーな立ち位置で終わった。

吹奏楽部の何が嫌だったかって、3年生は広いスペースでお弁当を食べるのに、他のスペースが十分空いているにもかかわらず1、2年生はドラムセットの狭い空間でお弁当を食べさせていて、それを当然とみんな思っている空気がまず受け付けなかった。

副部長が知り合い(小学校の頃一人でいる私に声をかけてきたうちの一人)だったので、

「じゅうたんの上空いてるじゃん、なんであんなところで食べなきゃいけないの、かわいそうだよ」

と言っても、「それが上下関係だから。私たちも1年生のころはあそこで食べてた」と言って改善しようとしてくれなかった。口では団結力とか言っても、そんな差別が蔓延る人たちを仲間と呼んで同じ音楽を奏でられるわけがないと思った。

 

そんな風に、どこに行っても自分にとってなじめない空気があり、疎外感が強まっていた。

その時代には、まだ保健室登校だの、不登校だのといった存在はまだ市民権を得ておらず、そんな状態でも私は地獄の学校、地獄の家、地獄のピアノ教室をさまよう日々を受け入れ、こなしていた。

幸い、勉強はできたので、先生に一目置かれていたため、(ガーディアンを得た魔法使いみたいに)迫害を逃れ、いじめに遭うことはなかった。

学生の時に本格的に病まなかったのは、勉強さえできれば存在までは脅かされない環境だったからかもしれない。

 

だとしても、中学時代は、絶対に二度と戻りたくない時代だ。(ネクラのデフォ)